人は誰しも悟りを得てすべての信仰箇条が一度に理解できて受け入れられるというものではなく、一つ々々理解が深められていく経緯をたどるもの、このような信仰の歩みは本来的に誰しもが歩む当たり前の道だと思われます。そのことは聖書から見る弟子たちの信仰の歩みからもうかがい知ることができます。ですから、人間となられた主イエスが語られ、なされたことの意味を弟子たちが実際にどのようにして理解を得、十字架の死と復活の意味を悟って、この方こそ神の子メシア(救世主)と信じ、世の迫害をも恐れず主イエス復活の証人となる信仰に至ることができたのかを信仰者の雛形として、見てみることは有意義であると存じます。
弟子たちはイエスと出会うとすぐに仕事も家族も置いてイエスに従ったのでした。それは主イエスがただの人ではなく神から遣わされた方だと直感したからでした。このことは、今日の日本で生活している私達には理解しにくいところですが、当時のユダヤの人達は、日々の生活の中で常に神様を意識し、神様の存在を疑う人などほとんどいない状況にあったのです。そのような土壌で育くまれた彼らの感覚は、特別なものだったのでしょう。あるいは人間イエスに直接出会うという場面においては理屈を超えた特別な力が働いたと考えるほうが正しいかもしれません。彼らは三年間ほど主イエスについて回り、イエスの行動、口から出る言葉を間近に見聴きしてこの人は神の御子メシア(救世主)と確信するまでになっていたのです。しかし、その確信は的外れで不十分なものでした。メシア(救世主)の役割を誤解した上での確信でしかなかったのです。そのことは主イエスがユダヤ教の指導者達の憎しみを買い殺してしまおうと追っ手を差し向けられたとき、ご自身何の抵抗をすることもなく捉えられてしまった状況をみて、メシアが何故?とパニックに陥って現場から逃げ去ってしまったことから分かります。特別な力を備えている方でありながら、この時は無力な者のようになり、何故メシアとしての役割を放棄してしまったのか、当時の弟子達にはその事情を全く理解できなかったのです。しかも、十字架刑を受けるに際しても、父なる神様も自ら遣わした我が子を助けようともせず見過ごされ、そのために主イエスがあっけなく時の権力者に殺されてしまわれたことを知って、抱いていた神の国実現の夢は打ち砕かれ、絶望のどん底に突き落とされてしまいました。要するに、弟子たちは、イエスに従って共に歩んでいた時には主イエスが神様から委ねられたメシアとしての役割について、実は全く理解できていなかったのです。
当時のユダヤ社会で待望されていたメシア像は、ローマ帝国の支配下に置かれていた属国ユダヤを開放し、昔のダビデやソロモン時代の王国のように豊かに繁栄したユダヤ王国を奪還させる英雄の出現だったのですが、弟子たちのメシア像もそれと大差のないものであったと推察されます。ですから、彼らにしてみれば、ローマ帝国を討ち果たしてもらわねばならないメシアが、ローマ兵の手にかかり十字架上で死んでしまうなどということはあってはならないことだったのです。一体神様はどうしてこのような状況を見過ごされ、放置されたのか、彼らには受け止めようもなく、また、主イエスを裏切って逃げてしまった後ろめたさを抱えながら、失意のうちに自らにも塁が及ぶことを畏れ、隠れ家に身を寄せ合い潜んでいたと聖書に記されています。
そこに、主イエスが「シャローム(あなた方に平和があるように)」といって姿を現したのでした。その場にいた者が主イエスだと分かったということは、主イエスの姿が彼らの目に見えたということでしょう。しかも会話までしているのです。死んだはずの主イエスが姿を現した。彼らはとっさに主イエスが甦ったと思ったのです。とにかく死んだはずの人が姿を見せて会話までしたしたということにより、神様は主イエスが死んで無になったのではないことをこの世の現象として見せられたのでした。絶望のどん底に落とされていた彼らは、主イエスの姿を目にして狂喜し舞い上がり、権力者を恐れて密室に隠れて身を潜めていた彼らは、勇気を得て外に出て行くことができるようになりました。しかし、実はこの時点での弟子たちはまだ十字架と復活の意味を本当に理解していたわけではありませんでした。
弟子たちが主イエスのメシアとしての役割、すなわち十字架の死と復活の意味を知るようになるには、復活された主イエスが弟子たちの見ている前で、天に昇られた後に、天から下ったとされる「聖霊降臨」の出来事を経験してからのことでした。主イエスは生前弟子たちにご自分の代わりに送られる弁護者(聖霊)について次のように話しておられます。
「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」(ヨハネ福音書:14-16)
「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(ヨハネ福音書:14-26)
 
弟子達は、彼らにとって未消化であった主イエスの言動について、人を導く「聖霊」の働きの下で時間をかけて学びつつ、その意味を悟っていったのでした。人目を忍んで身を潜めていた彼らが、権力者による迫害を恐れずに主イエス復活の証人となって雄々しく世の中への宣教に出ていくようになった大変化は聖霊の導きによるものであることは間違いのないところでしょう。このことから、人が信仰に至る道は、弟子たちがそうであったように自らの理解力によって得るものではなく、聖霊の導きの下で一つ一つの事柄を順次教えられ、育てられてゆくことが必要なのだと存じます。