神の子が人となってこの世に降られたのは、前話でお話ししましたように神の愛と神の福音を直接語って、人の生き方の真理を正しく伝えることにあったと理解されますが、それに加えてもう一つの重要事項は人間の罪を贖う役割(贖罪の業)を果たすことであったと考えられます。三年にわたって弟子たちを伴って、イスラエルの各地を回り言葉と行いをもって福音を伝えた人間イエスは、メシア(救い主)としての最後の役目である十字架の道へと進まれました。
 「贖罪」という言葉、罪を贖うという行為、一般の日本人にはピンとこない概念かもしれません。「贖罪」とは要するに人間の罪の賠償を払うということですが、主イエスが、十字架上で自らの命を献げてその任を担ったわけです。2000年前のユダヤ教ではエルサレムの神殿の大祭司が、年に一度至聖所(奥殿)に入って動物の生贄を奉げ、人々の罪の贖いをなしていたのですが、主イエスは真の大祭司として自らが完璧な生贄となって繰り返す必要のないその任を負ってくださったと聖書は語ります。(ヘブライ人への手紙9章24-28)
 
【他宗教に見る救い】
 神と人との和解について他の宗教の考え方を参照してみましょう。まず、日本古来の宗教である神道では、神との関係において穢れ(けがれ)を忌むべきものとしています。穢れとは、文字通り「汚れること」を意味し、一般的には、病気や死、怒りや憎しみ、災いなどネガティブなもの全般を指すものとして現在は使われているようです。「穢れ」については「禊(みそぎ)」によって清めます。禊には人が神前に進む際にはまず、水をもって手を洗い、口を注いで体を清めます。塩をまいての清めもあるようです。心の穢れは神職が祓い串を振って罪、けがれ、を清めることが行われています。自然界のもの全てには神が宿っているという八百万の神の考え方、有力な人物や恨みを残して亡くなった人物を『神』として祀ることなどを考えると、神と人との区別は明確ではなく、神道でいう神は少なくとも人間を含めたこの世の創造主ではないといえるでしょう。
 仏教では人は悟りを開いて煩悩を克服し、仏となることによって救われると教えていますが、聖道門といわれる仏教では自ら修行を行って悟りへの道を探求して涅槃に入る(所謂自力本願)と教え、浄土門といわれる仏教では衆生は自力による悟りが困難なため、阿弥陀仏に帰依することによって浄土に連れて行ってもらい、そこで仏となる(他力本願)と教えているようです。自ら修行して成仏できる人は良いとして、修業を積んで悟りに至ることのできない凡夫は一切を無にして阿弥陀仏に帰依する「南無阿弥陀仏」という念仏を唱えることで、仏の慈悲が得られて救済されるという教えです。この阿弥陀様は十字架によって人間の罪を贖われた主イエスに重なって見えるという方がよくおられます。因みに、阿弥陀仏は当初から存在する神ではなく法蔵という人が菩薩となって修行をして功徳を積み慈悲の心を持つ仏となったものと言われています。したがって、阿弥陀様は、人間を含むこの世の創造主ではないといえるでしょう。仏教は人の生き方を指し示す哲学のようであって、人間を含むこの世の創造主については、目を向けていないように私には思われます。
 
【キリスト教の救い】
 イエス・キリストは「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ:14-6)といわれました。神様を必要とせず自分の力によって生きようとする傲慢、他者との競争に勝利し富と権力と栄誉を手中に収めようとするこの世の価値基準に支配され、神の国から遠く隔離されてしまった人間社会に、神の子がメシア(救い主)として送られ、真理を伝え、人間社会と神の国とを結ぶ道、懸け橋がキリストの十字架によって整備されたことをキリスト教会は宣言します。神と人とを断絶しているもの、それは造り主である神から離反して独自の力で勝手に生きようとする「人間の罪」であります。ですから、真の命を得るために人はこれを克服しなければなりません。神様は人類の代表(神の民)としてイスラエルを選び、律法を与え、さらに預言者を通して神の言葉を伝えてきました。イスラエルの民は日々神様を忘れず、熱心に神様を求めていましたが、皆が皆律法を守れたわけではありませんでした。守れないものの中には不信仰からというより、社会的弱者故に守れない者もいましたが、エリートたちは彼らを蔑視し、律法を忠実に守ることこそ神様に認めてもらえる術(すべ)と確信し、本来の律法の趣旨を理解しないで律法主義に陥ってしまいました。そして、律法を守っている自分たちこそ神様から認めてもらえる存在であるとの傲慢に陥ってしまいました。節制努力して律法を守ること、修行して真理を学び悟ること、それ自体は決して悪いことではなく当然よいことであるわけですが、それを自分の力でなせると思いこんだところに落とし穴があったのではないでしょうか。これは人間の限界といえるのかもしれません。神の形に造られているとはいえ、不完全である人間に自らの努力によって富や栄誉やあらゆる欲望を克服し、罪を犯すなということは不可能であるように思われます。
 神と人との和解には神様の慈悲だけでは解決できない、血が流されなければ罪を清めることができないと一神教の神(アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神)は宣言します。争いを嫌い「和をもって貴しとなす」という心情を大事にしてきた日本人にはなかなか理解しにくいところではないでしょうか。血の犠牲を求める冷酷な神様とさえ思ってしまいがちです。イザヤ書は主イエスの生まれる500年も前に、神と人との和解のために、罪を犯した本人ではなく、罪のない他者が代わってその罪を償う苦難の僕の存在について記述(イザヤ書53章)しています。これは不完全である人の罪が赦され、神様との和解を果たすには罪(傷)のないものの犠牲が必要であるということの啓示であったと私は理解します。苦難の僕の姿は私達の目から見れば、受難の主イエスそのもののように映ります。エルサレム神殿の大祭司が毎年至聖所で行った動物の血ではなく、完全無欠の生贄として、人ではなく神の御子が人の肉体をとって血を流し、苦難の僕の役割を担って下さった。これが十字架による人間の罪の贖いということなのだと思います。
 人の救いは不完全な人の努力によっては、なすことのできないものであるという考えが示されます。人は聖人となって、尊敬の対象となったとしても、被造物である以上神のような完全性は持ち得ないからだと思います。主イエスの贖罪と阿弥陀様の本願とを対比すれば、自分の力によって生きようとせず人を超える大いなる存在の前に跪き、赦しを得てその導きの下に生きようという信仰において同様であると言えますが、帰依する対象が神ではなく立派な人間が功徳を積んで仏となった阿弥陀様であり、「血を流す犠牲」ではなくその「慈悲」によって救われるという点で主イエスの贖罪と阿弥陀様の本願は大きく異なるように私には思われます。
 
 何が救いとなるかは、その人が神様と自分を隔てている障害が何であるのか、換言すれば何が自分を苦しめ、不自由にしているかという認識によって異なるものになるかと存じます。
 戦場での戦闘を経験し、幸いにも生き残って帰国を果たした元兵士の方が「以前は、十字架上で血を流しむごたらしい様を表しているキリスト教のシンボルが嫌いだった。なぜ、西洋の宗教はあんなものを見上げて祈るのだろうか。微笑みをたたえた仏像を見ている方が、よほど心が安らぐのにと思っていた。しかし、殺し合いを強要されたむごたらしい戦場での経験を経て、罪深い人間の実像を見せつけられてからは、み仏の微笑みよりもキリストの苦難の姿の方がはるかに人を救いに導く力を持っていることが分かった。」と語ってくれた言葉は、実感をもって若き日の私の心の奥底に沁み入りました。人間の罪の根源的清めには苦しみを伴う血の洗いが必要ということではないでしょうか。
 人は神による被造物である故に、神を離れて命をつなぐことができないように造られているのではないか、体の各部分に心臓からの新鮮な血液が送られてこなければ人が命を保つことができないように、人の魂は神様からの聖霊が送られ洗われていなければ命を保てないようにできているのではないかと思われます。
 「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者(聖霊)を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」ヨハネ:14章15節と言われた主イエスは、十字架によって贖罪の業を成し遂げられ、復活の姿を顕された後の昇天に際し、あなた方の罪は私が責任を取ったから、これからは安心して聖霊の導きの下で今の時を精一杯生きるようにと励まし、弟子たちを世に送り出されたのでした。