今日の教会は、①聖職志願者の減少 ②信徒の高齢化 ③教会財政の逼迫 という三重苦を抱えています。これは東京教区だけでなく、日本聖公会全体や欧米のキリスト教会をも含めて教会が直面している問題であると思われます。この問題の原因は若者たちへの伝道・教育ができていないため、若い信徒が育っていないところにあるといえるでしょう。若い信徒が生まれないから、信徒の高齢化が進むとともに、聖職を志願する者も出にくいということであり、財政問題は信徒数が減少した上に高齢となって現職で働く人が少なくなれば献金総額も減少するということにほかなりません。この問題の根本原因は「若者たちへの伝道・教育ができていないことにある」ことをまず、確認しておきたいと存じます。
聖職志願者が少ないため当然現職の聖職数は減少し、現存する各教会に対して牧師を派遣することができなくなりました。無牧となった教会の信徒たちは、1)主日に聖餐を受ける機会が減少する 2)自分たちを見守ってくれる聖職がいなくなる といった不安に駆られます。東京教区の場合は教会間の距離が近いので、複数教会を統合すれば各教会に牧師を派遣することが可能となり、信徒は毎主日聖餐式に与かることができ、問題が起きた時にはすぐに牧師さんに相談でき、信徒の交わりもできますから、従来型の牧師の下にある牧会態勢を維持することが可能となります。教会施設も合理化すれば必要経費も軽くなるという財政上のメリットも挙げられます。これによって、現在の信徒達の不安は一応解決でき、教会の安定化が図れるのですが、先に確認した根本原因の解決にはなりませんので、聖職数の減少と信徒の高齢化は進行するという問題点が残っていることを忘れてはなりません。
私たちはこの根本原因をつくった更なる要因を究明しておくことが重要かと存じます。その第1は神様から委ねられた教会の働き(ここではこれを「宣教」という言葉で表現する。)を聖職者に依存し、信徒は働き人ではなく聖職に養われる羊としてだけ教会に繋がってきたこと。第2には聖職者は信徒の世話と教会組織の業務(各種委員会活動など)に時間をとられ、信徒でない人たち(外の羊)への伝道に力を入れることができなかったこと。第3には堅信を受けた後の信徒教育について十分な対応がとられてこなかったため、信徒は信仰理解について十分ではなく、日々信徒でない人々に接していながら彼らに対してキリスト教を伝える力も備わっていないし、信徒は自分たちにそのような使命があることすら自覚していない状況があること等々をその要因として列挙することができると思われます。
比較的安定した社会の中で、困ったときの頼りとなる聖職による牧会の下にあって、サクラメントの恵と気のおけない信徒との交わりが持てる教会生活に私たち信徒は安住してきました。そうした状況が、聖職依存度の高い日本聖公会体質を作り上げてしまったように思えます。そして、そこに安住してきた私たち聖公会の教会は外の羊に対する伝道・教育についてあまり熱心に力を注いできませんでした。それでも以前は親が子を連れて教会に来るという環境の中で、子供たちは教会に馴染み溶け込んで育ち、親から子へとの信仰伝承は比較的順調になされ、教会の規模はそれなりに維持されてきました。しかし、高度成長期以降になると競争社会となって日本人の生活のテンポは、アンダンテからアレグレットに変化し、子供たちでさえやれ塾通い、やれスポーツ教室とあわただしくなり、教会から子供たちの姿が消えてゆきました。残った子供たちも教会で聞くお話が自分たちの日常感覚とは馴染まずよく解らないし、仲間がいなくなったこともあり、教会に行っても楽しくないということで足が遠くなったという事実も否定できません。以来、信徒の高齢化現象が顕著となっています。信徒子弟にとってさえ心に届かない教会からの発信であれば、信徒でない若者たちに教会のメッセージが届かないことは無理もありません。教会は時代の変化、すなわち価値観の多様化、変化を見据えて相手の心に届く伝え方を本気で考えなくてはならないでしょう。
クリスチャンは皆、キリストの体の肢(細胞)として生かされているものであり、キリストの肢に連なった状態にあることによってとこしえの命に与かることができると教会は教えています。聖職も信徒もその体の肢であるならば、信徒であってもキリストの体の働き、主の宣教の業の一部を担うべき要素であることは聖職と同様であるはずです。体にあって機能しない細胞は老廃物として排除され朽ちはてる運命にありますから、信徒といえどもキリストの肢に連なる者として主の宣教において自分にできることはなにか、どのようなお手伝いができるのか一人一人が神様に問い、それを担うことは当然のことであるはずです。召命(神様からのcalling)というのは聖職者の専売特許と思っている信徒が多いと思いますが、キリストの体に連なる者は信徒であっても、自らがなすべき業を神様にお聴きし、宣教に参与すべきであることを確認したいものであります。自分にできることをする、勿論、どんな小さなことであってもよいのです。自分にできるお手伝いに励むことによって宣教に参与しているとき、私たちは主にあって生かされているという実感を感じ取ることができるように思います。
今の教会の体質改善の要点は、まず、信徒が聖職依存体質を脱却し、自分達にもできることは積極的に担うのだという意識改革をし、聖職者への負担を軽くし、また雑事から解放して聖職者にしかできない仕事に専念できるようにして差し上げることにあるように思えます。すなわち、いま、私たちの教会が取り組むべきことは聖職と信徒によるチームミニストリの体制を整えることにあるのではないでしょうか。