現代の若者への伝道を考えるとき、その内容と伝達手法についてまず考察しておきたいと存じます。内容といっても福音内容ということではありません。それは変わることのない真理ですが、それを現代の若者の心に届けるための表現内容のことであります。伝達手段とは、人が教会に来るのを待つのではなく、届ける手段でありますが、かつて盛んにおこなわれた街頭に立って教話をすること(路傍伝道)は現代社会では受け入れられない手段と思えます。求める若者はインターネットを介して必要情報を検索しています。忙しく動いている現代人に押し売りにはならず、求める者に応えるという最適の伝達手段であると思われます。教会は今の時代、このインターネットツールを十二分に活用して外の羊に向けて発信することが有効かと存じます。

 

キリスト教信仰への道筋は、主イエスの宣教第一声「神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい。」によって端的に示されているように、自分の価値観に従い、自分の力によって生きてゆく生き方を止めて、神様の導きのもとに、周りの人と共に共同体として生きてゆく新しい人生を歩みはじめることにあります。悔い改めるとは、心を入れ替えて不道徳をしませんということではなく、今までしがみついていたこの世の価値観を手放すというように理解すべきでしょう。そのような悔い改めは神様がどれほどに人間を、そして自分自身をも愛してくださっているかに気づかされること以外に起こり得ません。しかし、人は安定した日々の中では、その生活に安住したり、より豊かになろうと忙しく働き続けてしまい、なかなか神様に目を向けることができないものです。しかし、人は病気や、身近な人の死、天災や人災に遭遇し、日常生活が脅かされる事態に追い込まれたときに、目を覚まさせられるという経験をするようです。それが人の性ということかもしれません、神様はそのように人を作られたのだとも推察されます。

一方、人は自分自身に起こったことではなくても、人間社会に起きた悲惨な状況を目の当たりにしたとき、他人事とは思えないで自分にできる手助けはないかとの思いに駆られます。これは人に備えられた「良心」ともいうべきもので、人と神様を繋ぐチャンネルではないかと思われます。事実、日本社会においても東日本大震災の時、当たり前と思っていた日常を奪われ、混乱と絶望に突き落とされた被災者のもとに多くのボランティアが日本中、世界中から駆け付け、支援活動を行いました。その関係の中で、支援される者も支援する者も、それを周りで見ている者も、皆が人の絆の大切さを、人はお互いに助け合いながら生きてゆくものだということを学習したことは記憶に新しいところです。人とはコミュニティの一員として周りの人々と共に生きてゆく存在であることを学ぶには、平穏な生活の中ではなく、実際にこの世の中で生き難くされている人たちの現実と、その方々の生き様、経験されている事柄に目を向けて、共に考えてゆくことが有効な学びとなるであろうと存じます。

私自身、学校を卒業し国家公務員となって平穏な社会人生活を送っていた20代の若き日に、沖縄のハンセン病療養所でのボランティア活動に参加する機会を得、人格を否定されるような過酷な状況の中で生き、社会から隔離された環境に置かれているにもかかわらず、入園者の方々が常に主イエスの存在を心に留め神様に信頼を置いて、素朴で純真な信仰生活をされている姿を目の当たりにし、それまでの頭で理解し、観念的でしかなかった自分の信仰の殻を打ち壊され、目を覚まされたことを思い起こします。入園者である信徒の群れは主にある家族、共同体(教会の姿)が形成されていました。この方々から、主イエスの教えを理念として理解し、それを生活規範とするのではなく、日々の出来事の中で、主が共におられることを意識し、御心を推察し、自分にできるお手伝いをさせて頂きながら歩もうという信仰姿勢を教えられたのでした。

 

豊かで安定した社会に育ち、そこに安住している若者たちは現社会の体制に問題を感じていません。そのような彼らには非日常的な経験を通して、当然と思い込んでいることが実は当然ではないことに気付かせる機会を提供すること、その中で彼らの魂を揺り動かすようなプログラムを教会が提示する必要があるのではないかと存じます。例えば、日本が経験した戦争の悲惨な事実、とりわけ沖縄、広島、長崎での出来事、中東等における紛争国の状況や最貧国の人々の暮らしに注目し、人は自らの力だけで生きられるものではなく、神様が示された愛の関係の中で共に生かされるものであることを知っていただけるような「体験学習の場」を設定することが、礼拝への参加を呼び掛けることに優先して必要ではないかと小生は考えます。