今の時代に適応する宣教のための準備として私たちの教会がまず、改革しなければならない事柄は、信徒が自分達だけの居心地の良い交わりの場に安住するのではなく、主イエスがなさったように社会で生き難くされている人たちに関心を向け、その方々に関わりながら共に生きることではないでしょうか。その関わりを通して教会を本来の姿に近づけ、聖職だけに押し付けるのではなく、信徒が協力して宣教に当たるように体質改善を図ることではないかと存じます。一言で言うならば、信徒達による教会の私物化からの脱却です。教会は信徒にとって居心地がよいだけの場所であってはなりません。教会は主イエスに倣い、事情を抱え仕事にも付けず、自活できないでいる人々、社会から疎外されている人々へ目を向けて、問題点に共に向きあい、社会人としての自立を支援する働きを担うことが必要かと存じます。信徒一人々々にできることは限られていますが、何であれその働きの中でおこる出来事を注視することを通し、神様が共におられ、導いてくださることを感じ取り、教会の中でそれを共有して皆で宣教の業を学ぶこと、頭で聖書を学びキリスト教を理解するだけでなく、生活の場で信仰に生かされている生身の人の姿を直視することが、私達をキリストの体に結び付け、共同体の一員として、自分にできる働きを担う信仰へと導くことにつながるものと存じます。私たちの東京教区は、「遣わされた様々な場で『最も小さい者』(マタイ25:40)の声を聞き、悔い改め、共に苦しむ事を通して、主に出会うこと」を25年も前から宣教方針に掲げていることを思い起こしましょう。

聖職依存度が高い今の私たち信徒の意識を変えるためには、教区や、教会グループそして各教会において信徒談義の機会を設定し、今の教会のおかれた現状について、信徒自身が信仰理解を深め自分たちにできることを探し、実行に移すことが必要と存じます。

第1話で、我々の日本聖公会では堅信を受けた後の信徒教育について十分な対応がとられてこなかったため、信徒は信仰理解について十分ではなく、日々接している信徒でない人々に対してキリスト教を伝える力も備わっていないし、信徒は自分たちにそのような使命があることすら自覚していない状況があること申しました。人にものを伝えるには自分が理解したことを自分の言葉で発信しなければ、しっかり伝えることはできません。知識を伝えるだけなら、教科書を丸暗記してそれを教えてもそれなりの内容が伝わるかもしれませんが、人の生きる道となると、自分が信じる生き方を自分の言葉・姿勢で伝えなければ説得力を持ちません。今の信徒にその働きを担うだけの力があるでしょうか。それをするためには信徒は自分の信仰についてもう一度見つめなおし、整理し直して、信徒力を強くする必要があると存じます。日本におけるキリスト教の黎明期である明治大正期に、かなりの宣教実績を残したのは、宣教師たちだけの力ではありませんでした。宣教師たちを手助けした日本人伝道師たちの働きが大きかったことに着目したいと存じます。そのことを思い起こすとき、いま私たちが置かれている状況の中で、信徒力をつけ、聖職と信徒のチームミニストリの構築の重要性を痛感します。

信仰理解を深めるということは、信徒が皆神学を学ぶ必要があるといっているのではありません。自分が何を信じて何を大切にして生きているかを整理し、確認する必要があるということです。それは子弟達や周囲の方々から問われたときに、自分なりに答えられるようになるためです。ただ、聖職者が少なくなった状況にある今、聖職を補佐する信徒奉事者や勧話奉仕者の方々等には基礎神学を学んでいただきたいと願います。どのようにして信徒力をつけるか、信徒教育の内容や方法については教育機関である神学校にも協力を得て、管区もしくは教区において聖職と信徒が協議する必要があろうと存じます。

我々信徒がもう一度信仰を見つめなおし、信仰を整理するためには、内容としては例えば教会問答の学びによる教理の確認や聖書理解を深めること、祈りを通して感性を磨く(霊性を高める)こと、さらにはそれぞれの信仰生活の中で感じた神様の恵み、経験した事柄を信徒同士で分かち合うことなどが有効ではないかと小生は思っています。また、聖職者の負担を軽くするため、教籍簿の管理、統計表の作成をはじめとする教会事務の研修や牧会補助者としての機能を果たすために、信徒の状況を把握する日ごろのネットワークの構築や、病者や高齢者との連絡体制についても検討しておくことが重要であると存じます。

信徒それぞれが担う役割は多様であり、これをしなければならないというものではありません。しかし、キリストの体に連なる信徒である以上何かを担わせていただくという気持ちは持つ必要があると思います。高齢となって体が動かなくなっても、最後までできる奉仕は「祈り」です。