第9話 今までの私の人生の振り返り

 私の小学生の頃はのどかな時代でもあったので、学校から帰れば友達と楽しく遊んでいた。その頃何が心の負担になっていたかといえば、やはり学校の成績であったように思う。終業式の日、渡された通信簿を親に見られ、兄や姉と比べられる。これが一番嫌な事であったように記憶する。成績が悪ければ親がよい顔をしないことが子供にもわかる。その日ばかりは自分は親に愛されていないのではと思ったものである。中学にはいると中間試験、期末試験の結果が成績順に一覧表にされ、自分のところに赤線が引かれたものを渡されたが、この表から同学年の生徒の中で自分の成績順位が一目瞭然にわかってしまう。否応なしに競争社会に追いやられ、学年が上がるにつれ、高校への進学のことが突き付けられる。成績評価がいつもついて回るのが勉強嫌いな私にはとても苦痛であった。人は基本的に楽で楽しいことをしていたいという思いがあるものだが、遊びほけていれば落ちこぼれになることも事実で、それも困る。また、生きてゆくために人は働かねばならないという事情を背負っていることも意識下にあり、好きでもない勉強を、程ほどにしながら大学を卒業し、教育期間を終えたように思う。

私はクリスチャン三代目で幼児洗礼を受けており、物心つくころから教会に通っていた。自分の意思でというよりは、我が家の習慣として日曜日には教会へ通っていたというのが当っていよう。そのような状況で、神様の話、イエス様の話は幼児の頃から日曜学校(土曜学校)で聞かされていたが、そのお話を聞いてキリスト教を理解していったということではなかったように思う。大人の人に絵本や童話を読んでもらうのを聞くのと大差はなかったが、その後友達と遊べるのが楽しくて通い続けていた。小学生になると、祭壇奉仕を奨められ、上級生の真似をしながら礼拝での奉仕の所作を覚えた。これが子供ながらに楽しくて、上級生になってもこれを続けた。礼拝でのお説教など内容は分からなかったが、この礼拝奉仕をしていたお陰でそれが自分の役割と思え、大学生になるまで、教会から離れることはなかった。中学生、高校生、大学生と齢を重ねていくとそれなりの理解度を持って礼拝で語られる説教を聴くようになるわけだが、それによって信仰が身についていったかといえば必ずしもそうとは言えない。放蕩息子を心から歓迎する父の姿に示される神の愛、強盗に会って半死半生の人に奉仕するサマリア人の姿に示される神の愛、九十九匹の羊を野においても迷った一匹の羊を探し求める神の愛、これらの聖書に書かれた神様の愛の話は感動的ではあったがこれらをヒューマニズムの延長線上で理解していたように思う。また、一流と評価される教会オルガンの奏者であり、医師でもあったシュバイツァー博士が、ヨーロッパにおける名声と地位を捨ててアフリカの病者の救済にその身を奉げた話などに感銘を受けたものの、それはクリスチャンとして私欲を捨てた崇高な行為とだけ受け止めていた。

主イエスの最初の福音宣教メーッセージである「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」ここで語られる「悔い改め」であるが、日本人がこの言葉を聞けば道徳的な観点で、私利私欲を捨て、心を入れ替えることが求められていると理解してしまう。わたし自身長い間そのように理解していた。しかし、原語の持つ意味が「手を離す」ということだということを原語(ギリシャ語)が読めない私はごく最近教えられた。悔い改めとは、握りしめ、しがみ付いていたこの世的価値観を捨てよということだというのだ。それを知って、宣教第一声のみ言葉がすとんと心に落ちた。

さて、主イエスが示された神様の愛が、ヒューマニズムとは異質のものであることを私に悟らせてくれたのは、沖縄愛楽園の入園者の方々、祈りの家教会の信徒さんたちであった。不幸にもハンセン病を患い家族や一般社会から隔離され、人々からは酷い侮蔑的差別を受けていたにもかかわらず、園内ではひっそりとしかも穏やかに生活を営まれている不思議な方々でした。普通ならば、自分の責任とはいえない病気のために、なぜこんな非人間的な扱いを強要されなければならないのか、神仏を恨み、他者に怒りをぶちまけ、心も歪んでいると思われるのだが、外から訪問してきた私たちを心から歓迎して親切に対応してくださる態度、主日礼拝での賛美と祈りの態度、聖書を熱心に読んでいる姿にどうしてこのように穏やかでおられるのか、不思議に思えた。度重なる訪問・交わりを通して分かってきたことは、自らの意図をもって放棄したのではなく、むしろ剥奪されたという方が正しいが、この方々はこの世のあらゆる可能性から無縁とされた結果、それにしがみつくことをせず、頼るものは神様だけという純真な信仰を生きているためということであった。神により頼む生き方を頭で理解するのではなく、「悔い改めて福音を信じる生き方」を、全身全霊をもって実践しておられたのだ。

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昨年75歳という年を迎えて私は完全に職業から身を引いた。教育期間を終えて社会人となり、自活することは当然のこととして生きてきたように思う。人が生きてゆくためには働かなければならないことは、いわば宿命の様に思い当然のこととして50年余りの年月与えられた業務をこなし生活してきた。その間は自分が生活するためだけでなく、家族を持てば家族を養い育てることも当然と思えた。53歳の時役人生活を止め、民間で自由業を担ってきたので、私に定年という時は来なかった。多くの同年輩の友人たちは60歳で定年を迎え、いち早く現職生活から身を引いていた。そのとき概していえることは戦後の「もの造り日本」を支えてきた我々団塊世代の人は、組織に貢献することが自分の存在を確実にするものと考え、仕事一筋に走り続けていたため、定年となって、その生きがいを剥奪されたとき虚脱感を大なり小なり味わったとのことである。その大きさは人様々で、仕事から解放された友人たちは旅行、園芸、ゴルフやテニスなど趣味に時間を使って楽しみを見つけ、生活のリズムを取り戻しているようだった。孫と遊んだり、汗を流して収穫を得る野菜作りの楽しさ、ボランティア活動に参加し楽しく充実している生活の話も聞かされた。社会的責任を伴う仕事から解放されたこの時をどのように考え、どのように生きるかは一人一人に問われる事柄である。社会的責任を果たしたのだから、これからは老後と捉え、世を去るまで余生を楽しめればよいと考える人もいるようだ。しかし、私は職業だけが社会的責任ある役割とはとは思ってこなかったので、職業から身を引いた今を余生とは考えない。人との接点は家族親族だけではない。東京という都会で生活している私はご近所との付き合いは薄いが、信仰の友の集まりである教会とのつながりが大きい。教会での交流は職業、年齢、性別、社会的ステータスなどの垣根を超えたものである。自分の生活する領域を超え、異なる状況の中で生きる人の姿が見えてくる。人は一人で生きてゆくものではなく、関係性の中で育まれ生かされるものであるから、関係性の中に身を置けば、自分の役割が知らされることになる。力まず、自己主張せず、それを淡々とこなすことが今を生きることであろうと考える。

70の峠を超えたこの歳になって、自分の過ごして来た道を還り見た時、節目々々において自分で選び選択してきたと思ってきたことが、はたしてそうであったのだろうかと思えてきた。将来の職業を考え選択した大学の学科選択の時、職業選択の時、結婚を決めたときなど、その時は自分も一生懸命に悩みもし考えてきたことは否定できない事実であるが、そこには傍にいて導いてくださっていた存在が確かにおられたということに気付かされたのである。私が望んだけれどかなえられなかったケース、望んでいなかったプログラムに参加させられた時など、その時は神様に不平をもらしたが、時間が経過してみると、プログラムが終わって帰ってきてみると、意に反したその経験が自分を豊かにしてくれたに気付かされたのだ。人生で体験した出来事が、今の自分が形成されるのに必要な事であったと思えるのだ。この思いは、私を世に送り出してくれた方(親としての神)が子である私(人)の傍近くにいてくださるという思いにつながっている。