1月15日(水)19:00より第2回ヒルダ・ミッシェル信徒講座が当渋谷聖ミカエル教会にて開催されました。寒い平日夜でしたが15名もの参加者が集ってくださいました。   講師の布川悦子氏(日本聖公会神学院 講師、真生会館聖書センター勤務)から『働くということ~労働・職業~』というテーマを信徒という観点での解説があり、その後、質疑応答や感想などを話し合うこともできました。

 次回1月22日(水)19:00は成 成鍾司祭(ソン ソンジオン、日本聖公会渋谷聖ミカエル教会管理牧師)を講師に迎えて同じテーマを霊性という観点で解説します。 受講料は無料で事前の申し込みも不要です。宗派を問わずどなたでも参加できますのでお気軽にご参加ください。
 

テーマ『働くということ~労働・職業~』 ~聖書の観点から~

「タラントンのたとえ」における働くこと

布川 悦子

 このたとえに登場する僕のうち、二人は預かったタラントンを用いて働き、さらに儲けることができましたが、一人は彼らと同じように働くことができませんでした。二人はなぜ働くことができ、一人はなぜ働けなかったのか。働くことができなかった僕を主人は「悪い僕」と言って叱責し、銀行利子でも稼ぐべきであったと語りますが、この主人はわずかの利益をも惜しいと思い、金銭に固執する人なのでしょうか。
たとえを読むと、いろいろな疑問が起こってきますが、それらはひとまず置いて、聖書本文を読むことに集中したいと思います。そのために、私の職場である真生会館聖書センターが発行している資料を基に、ギリシア語原典の直訳を使って、ゆっくり聖書本文を読み進めてゆきます。
マタイ25章14―30節の「タラントンのたとえ」は、キリストの再臨を待つ教会はどのように生きるべきかを教えるたとえです。教会はイエスの復活と再臨の間を生きていますが、このたとえでは、主人が不在の時を生きる僕を通して、教会のあるべき姿が描かれます。
そこで、まず第一段落では、主人が旅に出るときの行動が語られています。
①旅に出かける主人の行動(14―15節)
[新共同訳]
14 天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。15 それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、
[直訳]
14        なぜならように ある人が 旅に出かける者が
呼んだ 自分の 僕たちを そして 渡した 彼らに 彼の財産を、
15        そして ある者に 与えた 五 タラントンを、
ある者に 二を、 ある者に 一を、 各人に 自分の力に従って、
そして 旅に出かけた。 すぐに
 
ⓐ段落の最初と最後に「旅に出かける」という語が置かれ、その内側は「渡した」と「与えた」という語で対応している。このような文章構成はキアスムス(交差配列法)と呼ばれ、重要なメッセージを語る箇所に用いられる。
ⓑ主人は僕たちに「渡し、与え」る。「渡す(パラディドーミ)」は「与える(ディドーミ)」の強意形であり、基本的には「あるものを他の者の処理にゆだねる」を意味する。ここではキアスムスによって、旅に出る主人が僕に財産を託すこと、その信頼の大きさが強調されている。
ⓒ「自分の力に従って」(それぞれの力に応じて)とあるように、人はそれぞれ異なる才能(タレント)を与えられている。主人は僕たちの力を知っており、一人ひとりの能力を認めている。
②僕たちの行動(16―18節)
[新共同訳]
16 五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。17 同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。18 しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。
[直訳]
16        行って 五タラントンを受け取った者は 働いた それらによって
そして 儲けた 他の 五を。
17        同様に 二の者は 儲けた 他の 二を。
18        だが一を受け取った者は 立ち去って 掘った 地を
そして 隠した 彼の主人の銀を
 
ⓐ五タラントンを受け取った者と二タラントンを受け取った者は同じ行動をとる。彼らは「それら(タラントン)によって、働き」、それぞれが受け取った分と同じだけを儲けた。
ⓑ18節に「だが」とあるように、「儲けた」二人の僕と「隠した」僕が対比される。一タラントンを受け取った者は「立ち去って、地を掘り、隠した」。彼は自分の受け取った分を「主人の銀」とみており、自分のものではないからこそ大切に守ろうとする。当時、地中に埋めるという方法は、預かり物を守るには最も安全な方法であった。
③帰って来た主人と二人の僕(19―23節)
[新共同訳]
19 さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。20 まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』21 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』22 次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、    御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』23 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』
[直訳]
19        だが多くの時間の後に 来る 主人が その僕たちの
そして 勘定を清算する 彼らとの。
20        そして 近づいて 五タラントンを受け取った者が
差し出した 他の 五 タラントンを 言いつつ
「主人よ、 五 タラントンを 私に あなたは渡した
見よ、 他の 五 タラントンを 私は儲けた」。
21        話した 彼に 彼の主人は、
「よくやった、 僕よ 良いそして忠実な者よ、
少しのものに関して あなたはあった 忠実で、
多くのものに対して あなたを 私は任命するだろう。
入りなさい あなたの主人の喜びの中へ」。
22        [だが]近づいて 二タラントンの者も 言った、
「主人よ、 二 タラントンを 私に あなたは渡した
見よ、 他の 二 タラントンを 私は儲けた」。
23        話した 彼に 彼の主人は、
「よくやった、 僕よ 良いそして忠実な者よ、
少しのものに関して あなたはあった 忠実で、
多くのものに対して あなたを 私は任命するだろう。
入りなさい あなたの主人の喜びの中へ」。
 
ⓐ「多くの時間の後に」という表現は、マタイ福音書が書かれた時代には、イエスの再臨の遅れが意識されていたことを暗示しているかもしれない。
ⓑ五タラントン受け取った者と二タラントンを受け取った者の報告で異なるのは金額の差だけであり、彼らはまったく同じ言葉で自分たちの働きを主人に報告する。
ⓒ二人に対する主人のねぎらいの言葉も同じである。主人が二人を同じように「良い忠実な者」と言って褒め、多くのものを管理する任務を与え、「主人の喜びの中へ入りなさい」と祝福する。主人は僕が儲けた金額の差を問題にしていない。
ⓓ「主人の喜びの中へ入る」という表現は、メシアの宴に入ることを意味する。この「喜び」は天の国でメシアが開く「喜びの宴」を表している。
ⓔこのたとえの始めでは「渡す」と「与える」という言葉によって、僕に対する主人の信頼が強調されている。二人の僕の言葉にはこの「渡す」という言葉が用いられている。彼らは「渡す」という主人の行動が何を意味しているかを理解し、主人の信頼に応えるために働いて、「儲けた」。「渡す」と「儲けた」は①と②に用いられた語であり、それらがこの段落で繰り返される。
ⓕ主人が自分たちの能力を認め、それを用いて働くようにと財産を与えた事実が二人の行動を支えている。主人は自分の意図を捉えて生きることのできた僕を「忠実な(信頼できる)僕」と呼び、最大の祝福を与える。「信頼できる僕」とは主人の信頼を信じることのできた者である。
ⓖ五タラントンと二タラントンを「渡された」僕の言葉は、新共同訳では「五(二)タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五(二)タラントンもうけました」と訳されている。しかし、原文には「…が」を意味する接続詞はない。ここで述べられているのは、「あなたは五タラントンを渡した」という事実に基づいて、「私はほかの五タラントンを儲けた」という成果があったということである。ここは、もし接続詞を用いて訳すなら、「あなたは渡した。だから私はさらに儲けた」という意味にとるのがよいだろう。僕が十分に働いて儲けることができたのは、主人が僕に財産を渡したという信頼に支えられていたからである。
④主人と主人の銀を隠した僕(24―30節)
[新共同訳]
24 ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、25 恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』26 主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。27 それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。28 さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。29 だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。30 この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」
[直訳]
24        だが近づいて 一タラントンを受け取っている者も 言った、
「主人よ、 私は知った あなたを 次のことを
厳しい あなたはある 人で、
収穫する者 あなたが蒔かなかった所で
そして 集める者 あなたがまき散らさなかった所から
25        そして 恐れて 立ち去って 私は隠した あなたのタラントンを 地の中に。
見よ、 あなたは持つ あなたのものを」。
26        だが答えて 彼の主人は 言った 彼に、
「悪い僕よ そして 臆病な者よ、 あなたは知っていたのか 次のことを
私は収穫する 私が蒔かなかった所で
そして 私は集める 私がまき散らさなかった所から
27        それですべきであった あなたは 投資することを 私の銀を 銀行家たちに、
そして 来て 私は 取り戻せただろう 私のものを 利子と共に。
28        それで取り上げなさい 彼から タラントンを
そして 与えなさい 持っている者に 十 タラントンを。
29        なぜなら持っている者皆に 与えられるだろう そして 有り余るだろう。
だが持たない者は 彼が持つものも 取り上げられるだろう 彼から。
30        そして 役たたずの 僕を 投げ出せ 外の闇の中へ。
そこには あるだろう 泣くことが そして 歯の軋みが。』
ⓐ一タラントンは「主人の銀」であると考えた僕はそれを地中に隠したが、帰って来た主人に「あなたのタラントン」と言って、一タラントンをそのまま差し出す。彼が「隠す」という行動をとったのは、主人を「厳しい」人と見ていたからである。
ⓑこの僕の言葉と主人の言葉には、同じ表現が用いられており、主人も自分は「私が蒔かなかった所で収穫し、まき散らさなかった所から集める」者であることを認めている。しかし、主人の言葉には「厳しい」という語はない。「自分が蒔かなかったところで収穫し、自分がまき散らさなかった所から集める」ことができるのは、僕を信頼しすべてを任せたからである。
ⓒ他の二人の僕はこのような主人の行動を信頼の証しとして受け取ったが、この僕は「厳しい、恐ろしい」としか見ることができなかった。この僕の言葉には、他の二人とは異なり「あなたは渡した」という言葉がない。彼の目に映っていたのは「主人の銀、あなたのタラントン」であり、それを「渡した」という事実を見落としている。主人の行動に込められた信頼を知ることのできなかった僕は、「恐れて、立ち去って、隠す」。
ⓓそのために、この僕は「悪い僕、臆病な者」と主人から叱責される。ここでの「悪」とは主人の僕に対する期待と信頼を受け止めることができなかったことであり、「臆病」な生き方を指している。新共同訳は「臆病な者」という語を「怠け者」と訳しているが、彼は働くことが嫌いな怠け者ではなく、与えられた財産が主人のものであることに怯んで、それを用いて生きることができなかった者である。
ⓔ主人は「私の銀を銀行家たちに投資する」べきであったと語る。しかし、当時の経済状況は不安定であり、銀行利子を得ることができないばかりが損害を被ることも多かった。この僕が地中に埋めたのは、預かった財産を守る最も安全な方法であるが、主人はそれよりも銀行家に預けることを良いと考えている。それは何を意味しているのか。主人は五タラントンを儲けた者にも二タラントンを儲けた者にも、まったく同じねぎらいの言葉をかけているように、働いて儲けた金額の差は問題にしていない。主人が考える「悪い」あり方とは、何もしないことである。
ⓕ「一タラントンを受け取っている者」という表現は、「一タラントンを受け取ったままである者」つまり「一タラントンを活用せずにいた者」という意味を表す。主人の言葉は、結果ではなく働くということそのものが大切であることを教えている。
ⓖ銀行の倒産というような危険には主人は触れていない。それを語らないということは、主人は働いた結果が失敗になるか、成功になるかは考えていないことを表している。主人が考える「悪」は、悪い結果ではなく、臆病になり何もしないことだからである。自分に任された能力を用いて働くとき、そこには失敗はないということを主人の言葉は暗示している。
⑤神からの信頼を信じて働く
主人は僕たちの力を知っており、一人ひとりの能力を認めている。だからこそ、異なる力を存分に用いるようにと、僕たちにそれぞれのタラントンを預ける。一タラントンを預かった者が働くことができなかったのは、その主人の信頼に気づかなかったことにある。
人はたいてい、「一」よりも「五」を良いものと見てしまう。しかし、このたとえの主人は金額の差を問題にしていない。彼は「一」は「一」として良いものであり、その能力を用いて生きることを求めている。「五タラントンを渡された者が五タラントンを儲ける」というのは、自分の能力を十分に用いて、それと同じだけ働いたことを表している。つまり、このたとえにおいて、「働く」とは自分自身を表現することである。
自分が「一」であることを悲観して、臆病になるのではなく、「一」であることを誇りに思って生きることができるとすれば、それは神が自分をありのままに認めてくれていることに気づくときである。たとえの主人が、なんであれ働くことを良しとするように、私たちは怯むことなく、働いて自分を生きることが求められている。神の信頼に応えて働くなら、その結果がどのようなものであったとしても、失敗という生き方はないからである。