2016年の春でしたか、S司祭のご指導による黙想会の中で、自分の詩編を作るという作業を致しました。その時、私が作った詩編(祈り)を以下に紹介します。

主よ、あなたは「私は道であり、命である」といわれました。

主よ、どうか私の歩むべき道を示し、命を与えてください。

私を生んで世に送り出してくださった主よ、私は私になりたいのです。

しかし、私には歩むべき道がいまだよく見えていません。

主よ、私は日々をどの様に生きれば、

あなたが生んでくださった子に相応しくなれるのでしょうか。

主よ、私を立派な人間にしてくださいとは申しません。

私をあなたの僕にしてほしいのです。

あなたの僕となって、何らかの仕事を手伝わせてほしいのです。

主よ、どうか私の声を聴いてください。

私は心の鈍いものです。

どうか私にも聞こえる声で、私の歩むべき道を示してください。

主よ、あなたは今、色々な雑時から私を開放してくださっています。

主よ、この時に至って、

私にあなたの僕としての役割を明らかにしてください。

私はこの世の人生のまとめとして、これからを生きたいのです。

自分にできることが小さいことは分かっています。

私にできる小さなお手伝いをお示しください。

主よ、あなたが示してくださることを誤解しないようにお導きください。

そして、あなたと共にこれからを歩ませてください。

 

自分の人生のまとめを考えるには、今日まで生きてきた自分の人生を振り返ることが重要であろうと存じます。そこで、物心ついて以来の自分の歩みを回想しつつ黙想の旅をしたいと存じます。日記やアルバムなどの過去資料があれば、事前に目を通しておくと当時の記憶再生の助けとなり有効と思います。

  • 幼児期の私とその頃遭遇した出来事
  • 小学生時代の私とその頃遭遇した出来事
  • 中高生時代の私とその頃遭遇した出来事
  • 大学生時代の私とその頃遭遇した出来事
  • 社会人となった私とその頃遭遇した出来事
  • 家庭をもって子育てと仕事に心血を注いだ私とその頃遭遇した出来事
  • 家庭生活の中で、職場生活の中で、教会生活の中でと分野ごとに

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この黙想を致しますと、普段忘れてしまっていた事柄を色々と思い起こし、人生の節目々々で自らが考え選択してきたことを洗いなおすことができます。たとえば、大学受験時の専門分野の選択、職業選択のことや、配偶者との出会いのこと、そして教会を通して出会った方々や遭遇した出来事などを。これらは自ら考え自ら選択してきたと思っていたが、果たしてそうであっただろうか、自分を超えた大きな力が背景に働いてはいなかったか等々、あらためて気づかされることが多々あります。

さて、私たち人間は一般には物心がついた幼児期には、この世を生きるための訓練(教育)を受ける期間となっています。小学校から大学までは社会人として生きてゆくための基礎知識、スキルを身に付ける期間に当たるように思われます。社会人となってからは、この世の営みを支えるために社会人としての責任を担い、その対価として収入を得、それによって生活を維持する期間が始まります。これはエデンの園を追われた人間(アダム)に課せられた「額に汗して働く」義務に相当すると言えるでしょうか。人は生活を成り立たせるための労働をしながら、次代を引き継ぐ人(子や後輩)の養育もします。そして、子育てが一段落して子供たちは自立し、職業としての仕事もリタイアという時を迎えて、老後の時を考えます。今の私は正にその時に至りました。労働と子育てから解放され、自らの人生を総括する時がきたともいえるのではないでしょうか。

「わたしの国はこの世に属していない。」ヨハネ18-34 と主は言われました。この世に属する者の義務から解放されつつある今、若い時に比べ体力的にも知的な面においても衰えはあるものの、まだそれなりに体も動くこの時期、どのように生きるかということは私自身の人生においてとても大事なことであるように思えます。この世の価値観に執着する自分の霊は脱いだ肉体と共に、朽ちてゆく運命にあることを思えば、今までこの世においてきた自らの存在の重心を神の国に移していくこと、自分の重心の比率をこの世から神の国へと移して高めてゆく必要があると思います。この世の制約や要請から解放される中で、私が私であるために本当にしたいことは何なのか、この世を去るときに私に与えられた人生がつまみ食いの食べ散らかしではなく完全燃焼されているように、神様の導きの内にじっくりと考えてみたいと思います。