私達クリスチャンに課せられた宣教使命は「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」であると伝承されています。しかし、前話でお話ししましたように人々に教え悟らせるのは私達ではなく、神様が聖霊の働きをもってなさることです。しかし、私達にも自分達が理解していること、信じていることを人々に伝えることはできると思いますし、マタイ福音書28章の宣教命令は、神様が弟子たち(キリスト信仰者)にそのことを、すなわち神による宣教の手助けをすることを望んでおられると理解することができるでしょう。聖霊の導きを感じることができない人たちに、感じることの出来た者が耳でわかる言葉として伝えることが必要ということだと思います。主イエスは弟子たちを伝道に派遣する際に、もし、人びとが耳を傾けないときには足の塵を払ってその町を出るようにと命じています。ですから、私たちに課された事柄は、人びとを悟らせることではなく、伝えるべき事柄がボケないように焦点を合わせて提示することでありましょう。続く「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」との言葉から理解されるように、私たちが伝えようとする事柄の意味は、世の終わりまで、私達と共にいてくださる神様がその場におられて聖霊を通して人々を導き教えてくださるのだと思います。そして私たちが伝えようとすることを人々が信じるか否かは、聞いた人たちがこれを真理と受け止められるか否かということになりますが、これは私たちの手を越えた事柄で、神様と聞いた方々各自の問題に帰着するものと存じます。
ところで、キリスト教に限らず、まじめな宗教には他者を愛する心(慈悲の心)や、人の思いや力よってではなく、自らを無にして天なる絶対者に帰依することによって心の平安が得られるといった宗教的真理を伝承しているものも沢山あります。私達クリスチャンが主を知らない人々に神様を語る場合、他の宗教には見られないキリスト教特有の教理については、特にしっかりと理解して伝える必要があるかと存じます。その特有の教理には、①神の御子イエスが人間の姿をとってこの世に遣わされたこと(受肉)、②そのイエスが人の罪を贖う生贄として十字架に付けられたこと(贖罪)、③十字架で死んだ後、人々の前に姿を顕し、会話や食事までされたという復活の出来事(復活)、これらを挙げることができるかと存じます。キリスト教の核心ともいうべきこの事柄を私たちはどのように人々に伝えたらよいのでしょうか。聞く人の立場を考え、出来る限りわかりやすく伝えることが私たちの課題であると思います。
2019年8月18日