第8話 人は神によって造られた存在か?偶然の結果の産物か?
自然科学の確かさに比重を置いて生きている現代人は、ビッグバンによって星が誕生し、水の存在など偶然に環境が整ったところに、アメーバのような単純生命体が自然発生し、進化と突然変異さらに自然淘汰を繰り返す中で、生命体は高級化し人類が育成されてきたと信じて疑わない人が多い。そのように考える人は、人類はこの世の創造主の意図によって造られたものではなく、偶然の結果の産物であると結論付ける。さらに、人間は他の動物と同様に、生物学的な一存在であるから、その死を回避することはできない。脳が機能を停止すれば、人の知的活動、精神活動も停止するから死は全ての終わりであり、その時をもってすべてが無に帰すと考えている。私も自然科学の確かさに比重を置いて生活してきた人間の一人であり、大学では物理学を専攻し、社会人となってからはその知識を基礎に、新技術の創作(発明)に関わる特許の世界に身を置いてきた。しかし、自然科学が万能であるとは考えていない。自然科学には対象となる領域というものがあり、その領域とは時間と空間という次元の世界における、自然法則のもとにある事象を扱うものである。したがって、心の問題、愛の問題を自然科学によって、解決しようとするのは的外れのことと考えている。ビッグバンの現象や生物の進化、突然変異さらに自然淘汰といった事象はこの世の現象として認めていますが、崇高な愛の心を持つ人間が、単なる偶然の産物に過ぎないという考えはあまりに不自然に過ぎ、私にはとても受け入れられない。ただし、これはあくまで私の考えであって、他者に押し付けることはできない。個々の人が与えられている感性、理性、知識を用いて判断すべきことである。
イエス・キリストは処女マリアから誕生し、十字架上で死んだ後復活したことを信じているクリスチャンと、そんな馬鹿なことはあり得ないと確信している人達との意識の間には歴然たる溝がある。自然法則に反し、常識では認められない出来事を、現代のクリスチャンがどうして信じるに至ったのか、すなわち、クリスチャンにはこの世の創造主である神には何でもできるという信仰があるわけだが、如何にしてそのような信仰に至ることが出来たのか、それを語り、後は聞いた方々の自由な判断にゆだねる姿勢が重要といえよう。それが多くの人に伝わるかどうかは定かではないが、キリスト教の教理は荒唐無稽と思い込んでいる現代人たちに、私たちの信仰はそんなものではないことを語ることがまず、宣教の第一歩となるのではないか。生を受けた人が自らの判断をもって歩むこと、また、信仰を持つ者が自らの信ずるところを語ることは、このように造られている人間の自然の生き方のように思えるからである。以下にクリスチャンである私が信じるところを参考的に述べさせていただくが、意のある方はこれを批判的にお聞きいただきたい。
私は前述したように、人間が自然現象の中で偶然の結果として生まれた存在であるとは信じることが出来ない。人が未だ手の届かない大宇宙の神秘、身近にあってもあらゆる手段と知恵を駆使しても解明しきれない人体の神秘、人間の英知も及ばぬこの世界の神秘に触れる時、これが偶然の産物であるなどととても思えない。人知を越えた神の意思によって造られたものであると考える方がより素直な捉え方と私には思えるからである。創世記に書かれた6日間の天地創造物語を文字通り信じているということではない。あれはことの事実を神話化して表現したものであるが、現代人にはこの聖書の表現が結構大きな躓きになっているようだ。さて、この世の営みは、神の手による天地創造に始まり世の終わりまで続けられる「神の国建設の大事業」であると私は理解している。人は神の形に造られていると聖書が語る一方で、神様の操り人形ではなく、知性、感性を含む感覚、良心、そして自由意志なる属性が与えられ、不完全ながらも自ら感じ、自ら考え、自ら決断して歩むように造られていることは先に検証してきた。感性の一部といえる「良心」、これは人が神を基準に考えようとする心というべきものであるように私には思われる。人がこれを備えているということは「人には神と交信できるチャンネルが備えられている」ことを意味し、他の動物と最も大きな違いであるように私には思えるのである。
人に自由意志を与えた神は人の行為を直接制御することはなさらず、感性を介して人の良心に働きかけ、導きを与えられるように見受けられる。人は良心というフィルターを通して受け止めた神の導きを、知性を使って受け入れるか拒否するかを考えて、自由意志をもって行動する。ということは、人は常に神の導きにしたがって行動するようには作られておらず、拒否することも可能なように造られているということになる。人は神の導きと共に、それに反する悪霊の誘惑(この世的誘惑と考えると分かり易いかもしれない。)を受け、行動するように造られている。この様な自由意志を持たせた人間にこの世の管理をゆだね、自ら感じ取り、自ら考えて何を大切にし、何を目標に生きようとするのか、どのような人間社会を形成しようとするのか、ハラハラドキドキしながら深い関心をもって見つめておられる神様のことを、私はこの世の造り主であり、私たち人間の生みの親、育ての親としてその存在を強く感じるのである。