門前の小僧の信徒談義
第3部 人の生き方
信仰を持たない方、教会に馴染めない信徒子弟と共に考える

はじめに
人間は自らの意図をもってこの世に生まれてきたわけではない。例外なく、誰しも気が付いたとき、物心がついたときにはすでにこの世に生まれており、生の営みを開始していたわけである。この世に送りだされ、送り出された場で人生を開始させられている自分という存在を自覚する。既に歩き始めているこの人生、どのように生きるかは各自に突き付けられた課題であり、人間にとっての永遠の謎解きであると言えよう。人は自らの意志と、目的をもって人生を開始したわけではないとすれば、その存在の出発点、根源をできるだけ客観的に解析してみることは、誰しもが深い関心のもてる事柄であると言えるのではないか。人生の問題について哲学や宗教といった分野に直接飛び込むことに躊躇する人たちであっても、この作業はまず始めの一歩として、有効な準備となるではないか。そこで、ここでは、人が普段あまり目を向けることがない、与えられている「人間の属性」について、自分をはじめて意識した時の自分の姿をできるだけ客観的に考察することから始め、その後自分がどのように変えられて来たかその究明を試み、そして、そのように形成されてきた私達は、今の時をどのように生きることが自分にふさわしいのかを考えてみたいと思う。

第1話 幼児期の姿
最初に人間の赤ちゃんの誕生から人として物心がついて歩み出す過程の有様に目を向けてみよう。人間の新生児は他の動物と比較すると、極めて自活力が低い形態で出生している。母体から生れ落ちるとすぐに立ち上がり、自ら乳を求める四つ足動物のような逞しさは見られず、他者の介助なしには全く生きてゆけない弱々しい存在として生を受ける。その弱々しい存在は親に代表される保護者の庇護のもとにあって、はじめて命をつなぎ日々の成長を可能にされている。乳を飲み湯舟に入れてもらい快適な環境におかれれば微笑み、渇き、空腹、おむつ等の不快な状況を感じれば泣いて訴える。人は教えられずして、生理的な欲求を訴えると共に、快適な状況ではにこにことほほ笑む表現力を備えられている。保護者はその反応から事情を感知し、必要な対応を取って赤子を育む。親は本能的に子を愛しみ、守り育てる過程で子に期待を抱くもののようだ。その期待とは親の置かれた状況や価値観によって一概にこうと結論づけることはできないものの、社会の一員として立ち、幸せに生きて行ける健康で心豊かな人間に育ってほしいとの思いであるといえよう。子がそのような親の気持ちを察し理解するのはずっと先のことであるけれど、親との対応関係の中で子の思いが形づけられていくものであることは確かであろう。何も考えずただ自己主張する段階から、親の存在を認識し、自分の行動が親の対応に影響することに気付く段階へと進んでいく。一人ポツンと置かれて不安を感じると、自分を守ってくれる存在を求め、それが満たされると安心する。心が安らかであるという状態は人間の心の健康にとって極めて重要な要件であるといえよう。赤子の基本的な欲求に応えないとその赤子が情緒不安定になることは今日臨床心理学的には定着した見解といえる。また、この段階で人は自分に関心を寄せてかまってほしいと思いからそれを引き出そうと努力するようになるようだ。これは人の持って生まれた生きる術といえそうだ。
教えられずして、生理的な欲求を訴える人の行動を生物学的に本能という。そう言ってこの問題をかたづけてしまう人が多いようだ。そもそも本能とは何なのか。辞書には「本能とは、動物(人間を含む)が生まれつき備えられているものと想定されている、ある行動へと駆り立てる性質のことを指す。」とある。しかし現在、この用語は最近専門的にはほとんど用いられなくなっており、類似した概念として情動、進化した心理メカニズム、認知的適応、生得的モジュールなどの用語が用いられるそうだ。脳科学では記憶や五感からの刺激が神経インパルスの発火となり、次の行動へつながる源泉となることを解明しているが、本能といって説明しようとするとその前後の関係をなんら説明できないからとのこと。とにかく、人が生まれつき植え付けられているように見えるこの能力、これが生物の進化の単なる結果であり「先祖から受け継いだ特性」であると了解する者もいれば、神様によってそのように作られた「人の属性」と考える者もいるだろう。今は結論を急がずに先に進みたい。