次に、人には生まれつき備えられているものと、生後の関係性の中で形成されてゆくものがあるが、このことについてみてみたい。赤子は一般的には親の庇護のもとに幼児となってゆく。人は成長過程で親の期待に応えると親が喜び、期待に背くと喜ばれないことを経験的に学んでいく。日本には「這えば立て、立てば歩めの親心」という諺があり、成長を願う親の心情がよくあらわされている。一概に言い切れることではないが、赤子が立ち上がれば喜び、倒れれば残念がる親の姿を子は何とはなしに見て、親の期待に応えたいと子は考えるようになるようだ。脳科学では記憶や五感からの刺激が神経インパルスの発火となり、次の行動へつながる源泉となるとしているが、親の期待を感じ取りどのような行動をとるかは個人差があることから、その行動パターンが生前予め定められていたものとは考え難い。ただ、他者の行為(action)を自らの思考の源泉とし、他者に自らの応答(reaction)をするという人の属性は持って生まれたものといえるのではないか。また、人は関係性の中に生きる存在であること、他者の行為を受けて自分がどのような応答をするかは、人それぞれによって差が生じるということは確かな現象であることは多くの人が認めることができるのではないか。選択肢のどれを選ぶか、人には自由度が与えられており、これが個性の根源の一要素となっているように見える。要するに、人間は本来「関係性の中で生きる」ものとされており、更に「自由意志」なるものを持っており個別の行動を選択することが出来るものであることが見て取れる。何を選択するかその内容に個人差があるものの、それぞれがその判断をしつつ行動をとるという属性を備えている点では一致している。

では人が選択肢を選ぶ判断基準とするものは何か?生まれつきその基準を持っていると考えるのはいささか不自然のように思える。初期の成長過程で親などの他者から褒められたり、叱られたりすることによって、その行為は他者から許される行為、喜ばれる行為との認識を持つようになり、徐々に判断基準が形成されていくのではないか。その一方で、判断基準そのものではないが、基準の方向付けの様なものは生まれつき備えているのではないかと思われる節がある。このことは善悪の判定基準などを見ると、それは古今東西の道徳観がかなり一致しているように見えることから推定される。殺してはならない。盗んではならない。嘘をついてはならない。親や目上の者を大事にしろ。これらのたぐいの戒めは地域や時代を超えて一般的に人間社会で共通しているようだ。また、美しいものを美しいと感じる美意識、おいしいものをおいしいと感じ、よい香りをいい匂いと感じる嗜好といった分野でもこの傾向が見られる。いわゆる五感というものは個人差が少なく、同様の感じ方をする点も抑えておきたい事柄である。人がこの様に感じ、判断する基準の方向性は生まれながらに備えている属性であると考えられるのではないか。ただし、この方向付けは固定的な判断基準に導くものではなく、親等の周囲の大人の教えに大きく影響され、かなり多様なものとなることは経験的に明らかであろう。また、社会的な道徳観、価値観が地域、民族によって多様であることは文化人類学的に明らかであるし、国家等の集団が置かれた立場や、国益思考から吹き込まれたプロパガンダによって、不自然な価値観に歪まされたりすることは歴史的に実証された事柄といえよう。そして、異常な応力を受け歪まされた価値観はその応力から解放されると、人は健全な価値観に修正されていくようになっていく現象も見て取れる。それは、戦前・戦中の日本では皆が皆軍国少年・少女であったものが、戦争が終わりプロパガンダから解放されるとその悪夢から覚め、民主主義者になっていったという現象に示されている。

以上のことから、人は生まれながらに感性や判断する機能を備えていること、そして経験の中で蓄積されてゆく知識と外部からの刺激が加わり、個人としての対応がとられ人格を形成していることが理解できるのではないか。