第5話 人の成長と社会性

 自らの意志をもって生まれてきたものではない私達人間が、生まれながらに備えられている属性についてまずみてきた。それを総括してみると、人は出来事や物事を感じ取る感性、物事を理解して判断する理性が備えられていることが、また、自らの行動を決める善悪や好みといった判断要素についてある方向性が植え付けられているらしいことが分かる。また、個々の行動は個々の感性、理性によって独立して起こされ、直接的干渉はない。人は個々に自由意志をもって行動する存在であると言える。したがって、自らの意志で生まれてきたわけではない個々の人間は、自らどのような行動を取るか、即ち如何なる人生を送るかは例外なく、個々の人間に課せられた問題であると言えよう。

では、今の時代実際に人はどのような歩みをするのか考察してみよう。まず、物心がつくまでの人の成長について目を向けてみれば、親の思いというものは幼い子供の心に絶大な影響を与えるものであることが分かる。親に褒められることをし、親から叱られることはしないようにして子は育つ。親に見守られ、生活の術を教えられる成長過程で、人は個人としての物心が育まれていく。おかれた環境が人の成長に大きな影響を及ぼすことは、多くの事例から確かなことといえそうである。その時代の社会状況、親の社会的な立場に伴う環境は、その人の人格形成に大きな影響を及ぼすことは多くの人の認めるところであろう。当初は親、兄弟の、年齢が進むと学校の教師による指導と評価の影響を受けるようになる。人の成長過程においてこれは正常であると思われるが、成人して独り立ちする時期になっても人の評価を気にする現代人についてはこの習性が抜けきらない現象がいささか気になる。教育課程を終え、成人し、社会人となった時点で、人は自立するべきものと考えるのだが、組織の論理に組み入れられ、自律性が危うい状態にあるように思われる。この点については、後で詳しく見てみたい。

アメリカの心理学者であるアブラハム・マズロは、人間の欲求は5段階のピラミッドのようになっていて、底辺から始まって徐々に1段階上の欲求を志すという説を唱えた。すなわち、その人間の欲求の5段階とは「①生理的欲求→②安全の欲求→③親和の欲求→④自我の欲求→⑤自己実現の欲求」とされている。生理的欲求と安全の欲求は、人間が生きる上での衣食住等の根源的な欲求であり、のどが渇けば水を求め、空腹となれば食を求め、危険に脅かされれば安全を求めるといったことです。親和の欲求とは、人は一人では生きてゆけず他人と関りたい、他者と同じようにしたいなどの集団帰属の欲求である。自我の欲求とは、自分が属する集団(社会)から価値ある存在と認められ、尊敬されることを求める認知欲求のこと、そして、自己実現の欲求とは、自分の能力、可能性を発揮して創造的活動や自己の成長を図りたいと思う欲求のことを指しており、人生の意味を考察する哲学や宗教の領域はこの第5段階に属するものといえよう。

第3段階までは人間に限らず、群れを組んで集団生活を送る動物たちにも見受けられる属性である。彼らは群れの中で、誰が群れを率いるリーダーとなるか力関係の競争現象がみられる。熾烈なボス争いに勝利して群れのボスの地位を獲得したものは、先頭に立って群れを敵から守る務めと共に自分の欲求を有利に満たすことができる権利を得る。ハーレムのボスとなったオスは群れのメスを独占するといった現象がよくみられる。力の強いものが子孫を残すことが出来るという自然淘汰のルールに基づくものと生物学者は説明する。人間社会にあっても原始時代には生活権を守るため、他の群れと縄張り争いを起こし、この生存競争に勝ったものが負けたものを抹殺したり、奴隷として支配したりしてきた。現代でも国益を主張して他国を武力行使により侵略するような類似の現象が残っているが、一般的にはこれは悪いこととして忌み嫌われるようになってきている。過去の経験から学んだことは次世代にも引き継がれ、人類は賢くなってゆく。このあたりが他の動物と対比すると人間社会の特異性が認められる段階といえるであろう。マズローの第4段階自我の欲求は、所属する集団の中で自分を高く評価してもらいたい、自分の能力を認められたいという欲求ですが、これは現代人の心にかなり深く刻み込まれた欲求であるように思われます。現代人の大多数は第5段階の欲求に向かうことなく、この段階の欲求に留まり、その欲求の下に拘束された生活しているように思われるところ、この点の検証を以下に展開したい。