第10話 日本人と宗教
私はたまたまクリスチャンの家に生まれたので、子供の頃から、キリスト教会との関係をもつことができたが、そうでなければキリスト教は縁遠いものであったのではないかと推察される。何故ならば、日本社会ではキリスト教にたどり着くことが難しい状況にあるように思われるからだ。日本においてクリスチャン家庭はわずかであり、現状は人口の1%に満たない。キリスト教といわず、広く宗教との接点といえば、親族の冠婚葬祭の時、正月の初詣、地元神社の祭礼、入学祈願や良縁祈願などの参拝があげられるが、信仰に基づく行為というよりは生活習慣の一環という意味合いが大きい。元々家の宗教は仏教という方が日本人に多いが、檀家信徒と旦那寺という檀家制度は崩壊しつつあり、檀家信徒と宗教家である僧侶との日常の接点は薄いようだ。人が亡くなれば親族はお寺さんに連絡を取って葬儀を執り行ってなってもらうが、宗教的な関心は低い。葬儀の時、個人を記念する法事の時にだけお寺さんと関わるというのが一般的となっている中で、宗教心もないのにただお経だけをあげてもらう、それも如何なものかと思う現代人は無宗教葬儀でということも見受けられるようになってきている。結婚式は神前で、葬儀は仏式でというという旧来の習慣が崩壊しつつあり、これは日本人の宗教離れの表れといえよう。
宗教とは、一般に、人間の不完全さを認識し、人間の力や自然の力を超えた存在の前に跪いて救いを求める観念といえよう。古来、日本人は高い山、大きな岩、大樹、大滝など眼前に威厳を放って存在するものの中や、嵐や雷といった猛威を振るう自然現象に中に神が宿ると考え、それらのものをご神体として八百万の神々を崇拝してきた。自らの非力を自覚した人が偉大な存在である神の前にへりくだり助けを乞うという素朴な信仰である。ただ、神道では病気や災害等の不幸な出来事、人の忌み嫌うものを穢れとし、それを「禊(みそぎ)」によって清めることをしますが、人がいかに生きるべきかを解き、導くような教理、神学というものは見当たらない。
仏教では人は悟りを開いて煩悩を克服し、仏となることによって救われるという教理を持っている。その教理とは、聖道門といわれる仏教では自ら修行を行って悟りへの道を探求して涅槃に入る(所謂自力本願)と教え、浄土門といわれる仏教では衆生は自力による悟りが困難なため、阿弥陀仏に帰依することによって浄土に連れて行ってもらい、そこで仏となる(他力本願)と教えている。自ら修行して成仏できる人は良いとして、修業を積んで悟りに至ることのできない凡夫は一切を無にして阿弥陀仏に帰依する「南無阿弥陀仏」という念仏を唱えることで、仏の慈悲が得られて救済されるという教えとのこと。門外漢の私には仏教の教えを説くことはできないが、南無、即ち己を主張することを止め、阿弥陀仏に帰依するという姿勢の中で人間を超えた存在仏(神)との出会いが起こるということは理解できる。私心を捨てて一生懸命にいと高き存在に目を向ける宗教心を持った人に、いと高き方はきちんと応えてくださるという宗教的真理が示されていると感じる。
江戸時代には戸籍制度というものがなく、「宗門人別改帳」という村・町ごとに作成された民衆調査の台帳や、お寺の作成した「過去帳」が現在でいう戸籍制度の役割を果たすようになっていた。人々はいずれかのお寺に必然的につながっており、日常生活でのお寺との接触は密であった。しかし、民衆が宗教心をもって仏道を求めたかといえば、そうとは思われず、時々に法話を聞かされるなかで、良いことを行なえば極楽に、悪いことをすれば地獄に落とされる程度の理解であったと思われる。要するに、民衆にとっての仏教は素朴な道徳的規律を教える機能を果たしていたと推察される。ところが、明治以降近代化の過程で国は列強諸国に追いつき追い越すことを国是と掲げ、神道、仏教をはじめとする他の宗教の上に立つ皇祖「天照大皇神」を最高神とする国家神道を作り上げ、愛国心を煽る政策をとって日本人の宗教心を狂わせた。一方では社会的道徳規範は法律や社会通念が宗教に代わって担うようになり、宗教が担ってきたその機能も失われた。日常生活でのお寺との接触が希薄となって宗教離れが進む中、自然界の仕組みが次々に明らかにされ、自然科学への信頼が高まり、あたかもそれが万能であるかの如き考えが蔓延しつつあり、今の日本人は宗教的音痴に陥っているように見える。その宗教的音痴が若者を怪しげなカルト宗教に走る現象を引き起こしているものと推察され、日本社会において宗教への信頼度がさらに低下している状況があることを否定できない。